勝ち抜きエレキ合戦

音楽事象

1960年代半ば、日本中を席巻していたエレキギターブームの真っ只中に登場したのが、フジテレビの公開音楽番組「勝ち抜きエレキ合戦」でした。
1965年6月23日から1966年9月28日まで放送されたこの番組は、毎週ゴールデンタイムの水曜夜に30分枠でオンエアされ、全65回にわたり視聴者をテレビの前に釘付けにしました。
当時はビートルズやベンチャーズなど洋楽インストゥルメンタルが若者文化の象徴となりつつあった時代で、「エレキバンド」という言葉そのものが最新流行のサウンドを意味していたのです。
「勝ち抜きエレキ合戦」は、そうした時代の熱気をそのままステージ上に凝縮した番組でした。

番組の基本フォーマットはきわめてシンプルかつスリリングです。
毎回5組のエレキバンドが登場し、それぞれが自慢のエレキギターやベース、ドラム、キーボードを駆使してパフォーマンスを披露します。
演奏が終わると、審査員が1人10点、合計50点満点で採点し、その日の最高得点バンドが「チャンピオン」として勝ち残る仕組みで、同じバンドが連勝を重ね、4週連続で勝ち抜くことができれば、晴れて「グランド・チャンピオン」の称号を獲得できます。
単発の勝負で終わらず「勝ち抜き」方式にしたことで、視聴者はお気に入りのエレキバンドを毎週応援し続ける楽しみを味わえたわけです。

司会者として番組を引っ張ったのは、歌手でありタレントでもあった鈴木ヤスシ。
歯切れのよいトークとテンションの高い掛け声で、番組のテンポを軽快に保ちました。
さらに、アシスタントとして若き日のジュディ・オングが出演し、華やかな存在感を放っていました。
男性中心になりがちなエレキバンド番組の中に、ジュディ・オングという女性タレントがいることで、画面に色気と品の良さが加わっていたのも見逃せないポイントです。

採点を担った審査員陣は、当時の音楽界を代表する顔ぶれでした。
作曲家として数々のヒット曲を手がけた浜口庫之助、音楽評論の第一人者として名を馳せていた福田一郎、ロックやポップスを積極的に紹介していた音楽評論家の湯川れい子、ギタリストとしても知られる沢田駿吾。
この4名がレギュラー審査員として毎回出演し、そこにゲスト審査員1名が加わる構成でした。
ゲストには、エレキギターの名手・寺内タケシのように、当時のエレキシーンを語るうえで欠かせないミュージシャンが招かれることも多く、番組の権威と説得力を高めていました。
演奏技術だけでなく、アレンジの工夫、ステージング、バンド全体の一体感といった要素まで、プロの視点から厳正に評価していた点も「勝ち抜きエレキ合戦」の特徴です。

番組の象徴ともいえるのが、エネルギッシュなオープニングでした。
幕開けと同時に、鈴木ヤスシがスタジオ全体に響き渡る声で「勝ち抜きエレキ合戦!」と叫ぶと、テーマ曲が勢いよくスタートします。
そのイントロを支えていたのが、人気エレキバンド・シャープファイブのギタリスト、三根信宏のプレイでした。
クロマチックランを織り込んだ鋭いフレーズは、エレキギターの魅力を端的に示すもので、当時の若者たちにとっては「自分もこんな風に弾きたい」と憧れを抱かせるきっかけになったと言っても過言ではありません。

鈴木ヤスシが「燃~えろ!燃~えろ!エ~レキ!」と歌い出すと、今度はシャープホークスの安岡力也が、いかつい肩を揺らしながら同じフレーズをバックコーラスとして返す―この掛け合いは、番組ファンの記憶に焼き付いている名場面です。
俳優としても知られる後年の安岡力也とはまた違った、若きロッカーとしての荒々しい魅力が画面からあふれていました。
ステージの左右にはビートルズの等身大パネルが立ち並び、右側にポール・マッカートニー、左側にジョン・レノンという配置も、当時の洋楽志向の強さを象徴していました。
国産エレキバンドがビートルズに「肩を並べている」かのような視覚的演出が、視聴者の心を一段と高揚させていたのです。

こうした豪華な演出と実力派エレキバンドたちによる真剣勝負の積み重ねが、「勝ち抜きエレキ合戦」を単なるバラエティ番組ではなく、「登竜門」としての意味合いを持つ音楽番組へと押し上げていきました。
無名に近かった若手バンドが、この番組をきっかけに一気に注目を集め、のちの日本ロック/ポップスシーンで活躍していくケースも少なくありません。
エレキバンドにとって、「勝ち抜きエレキ合戦」に出場すること自体がステータスであり、その上で好成績を残せばレコード会社や音楽プロデューサーの目に留まる可能性が高まる、いわばオーディション的な役割も担っていたのです。

なかでも印象的な存在として語り継がれているのが、寺尾聰がベースを担当していたエレキバンド、ザ・サベージ(The Savages)です。
のちにシンガーソングライター、俳優として「ルビーの指環」などの大ヒットを飛ばす寺尾聰が、当時まだ18歳の青年としてステージ上に立ち、ベースを構えていたという事実は、今振り返ると非常に興味深いエピソードでしょう。
因みに ザ・サベージは下記の通り、なんと連戦連勝、しかもすべて満点で、第3代グランド・チャンピオンの座を獲得しました。
・初 戦 シャドウズ「ニブラム」満点の50点
・第2戦 シャドウズ「霧のカレリア」満点の50点
・第3戦 シャドウズ「紅の翼」満点の50点
・第4戦 シャドウズ「ボッサルー」満点の50点
・第5戦 ベンチャーズ「急がば廻れ(4分の5拍子アレンジ)」満点の50点

審査員たちが一斉に「言うことなし!」と口をそろえて絶賛した場面は、多くの視聴者の記憶に鮮明に残っています。
単純なテクニックの誇示ではなく、曲の構成や強弱のつけ方、メロディラインの歌わせ方といった部分まで緻密に計算されており、まさに完成度の高いステージでした。
ザ・サベージの強さの要因として語られるのは、まず「選曲の妙」です。
当時から人気の高かったシャドウズやベンチャーズといったエレキバンドのレパートリーを押さえつつ、ただコピーするだけではなく、自分たちなりの解釈やアレンジを加えることで、原曲のよさとバンドの個性を同時にアピールすることに成功していました。

さらに、短期間で演奏の完成度を極限まで高めてくる集中力と、リハーサルを重ねて培われたバンド内の一体感も、彼らの武器でした。
ベースの寺尾聰がリズムセクションをどっしりと支え、その上にギター陣のエレキギターがきらびやかなフレーズを重ね、ドラムがダイナミックに全体をドライブさせる―そうしたアンサンブルの精度が、審査員だけでなく視聴者にもはっきり伝わっていたのでしょう。
映像として残っている場面を思い浮かべるだけでも、ザ・サベージのステージ上での存在感と集中した空気が蘇ってきます。

「勝ち抜きエレキ合戦」でのグランド・チャンピオン獲得は、ザ・サベージにとって大きなターニングポイントになりました。
この快進撃がきっかけとなり、彼らはテレビや音楽業界から一層注目されるようになり、翌年には「いつまでもいつまでも」でレコードデビューを果たします。
寺尾聰という人物の長い音楽キャリアを振り返るときも、「勝ち抜きエレキ合戦」に登場したエレキバンド時代を抜きに語ることはできません。
後年のシティポップ的なサウンドの源流には、若き日のエレキギターとベースへの情熱があったと考えると、番組の歴史的意義はさらに深く感じられます。

「勝ち抜きエレキ合戦」は、わずか1年余りの放送期間ながら、日本のテレビ史・ポピュラー音楽史において特別な位置を占める番組です。
エレキバンドという新しいスタイルのバンドが、茶の間にまで進出していく橋渡し役となり、同時に若いミュージシャンたちの才能をいち早く世に紹介する舞台として機能しました。
シャープファイブの三根信宏、シャープホークスの安岡力也、ザ・サベージ、そして数多くの無名のエレキバンドたちが、この番組のステージを踏んだ経験を糧に、日本ロックシーンの礎を築いていったと言えるでしょう。

スタジオに響いたエレキギターの鋭いトーン、ビートルズのパネルに見守られながら繰り広げられた熱戦、審査員が真剣な表情でスコアボードに点数を書き込む光景ー「勝ち抜きエレキ合戦」は、時代の空気をそのまま封じ込めた貴重な記録であり、日本の若者文化が大きく変わり始めた1960年代の象徴的な断片でもあったのです。
 

関連記事

TOP
CLOSE